【今日のタブチ】観客は“輝いたマイケル・ジャクソン”を観たい――映画『Michael/マイケル』が“あえて”描かなかったもの
映画『Michael/マイケル』を視聴した。
私は、話題作であってもすぐに観ることをしない。「観る」と決めている作品でも急がず、観た人の意見や反応を確かめてから、作品を吟味し、自分の感想を含めた「その作品の価値」を整理したいからだ。
本作は、“キング・オブ・ポップ”と称されたマイケル・ジャクソンの生涯を描く伝記映画(バイオピック)である。ジャクソン5時代から世界的スターへと駆け上がる過程を中心に描かれており、音楽史に残る数々のパフォーマンスと、その背後にあった家族関係や創作の日々が映し出される。主演にはマイケル本人の甥であるジャファー・ジャクソンが起用され、その再現性の高さも大きな話題になった。
観ながら感じたのは、この作品が単なる伝記映画ではなく、映像研究やプロモーション研究の題材としても非常に興味深い作品だということである。
まず考えさせられたのは、「実在人物を映画の中でどう再現するのか」という問題である。
伝記映画には、史実を伝える役割と、エンターテインメントとして観客を引き込む役割の両方が求められる。本作もまたその間で揺れ動いている。観客がすでに持っている「マイケル・ジャクソン像」と、映画が提示する「マイケル像」は必ずしも同じではない。どの出来事を描き、どの出来事を描かないのか。どの性格を強調し、どの側面をあえて見せないのか。その選択自体が映像表現なのである。
観ていて改めて感じたのは、伝記映画とは歴史記録でも完全なフィクションでもなく、その中間領域に存在する特殊な映像作品だということだった。
また、本作は映像技術の面から見ても興味深い。大規模なコンサートシーンや観客の群衆表現、往年の伝説的なステージの再現には高度なVFX技術が投入されていると思われる。実際には存在しない映像空間であるにもかかわらず、観客はまるで本物のライブ映像を見ているかのような感覚になる。
音楽映画においてCGはもはや欠落部分を補うための技術ではない。観客を物語の中へ没入させ、感情移入を促すための演出装置になっている。実写とデジタル技術の境界が急速に曖昧になっている現在の映画制作の到達点を示しているようにも感じた。
さらに、プロモーションの視点から見ても本作は実によく設計されている。
製作には『ボヘミアン・ラプソディ』を手掛けたグレアム・キングが参加し、世界的な知名度を持つマイケル・ジャクソンというIPを活用している。さらに、主演に実の甥であるジャファー・ジャクソンを起用したことで、「本当に似ているのか」という話題そのものが宣伝になった。『ボヘミアン・ラプソディ』に魅了された観客のなかには、「また同じような高揚感を味わえるのではないか」と期待して映画館に足を運んだ人も少なくないだろう。
現代の大作映画では、作品内容だけでなく「作品の外側の物語」をどう作るかが重要になっている。本作はその点でも非常に巧みであり、企画段階から世界中の注目を集める仕組みを備えていた。
そしてもう一つ印象的だったのは、この映画が人物の半生を追うだけの作品ではなく、観客をライブ会場の最前列へ連れて行く体験型コンテンツとして設計されていることである。
近年の音楽映画やライブ映画は、単に物語を鑑賞するだけではなく、「その場にいたような感覚」を提供する方向へ進化している。本作はまさにその代表例と言ってよいだろう。
また、マイケル・ジャクソンという存在そのものをどう後世へ伝えるのかという点にも興味を引かれた。彼は単なる歌手ではない。世界的なブランドであり、一種の神話的存在である。本作は、そのブランドや神話をどのように再構築するのかという挑戦でもある。
そう考えると、この映画から見えてくるテーマは実に多い。
実在人物をどう表象するのかという伝記映画の問題。CGやVFXによるライブ体験の再構築。世界的IPを活用したプロデュース戦略。映画における没入体験の設計。そして文化的ブランドとしてのスター像の継承である。
現代の伝記映画は、もはや単なる「人生の再現」ではない。歴史、技術、ビジネス、プロモーションが複雑に絡み合った総合的なコンテンツとして成立している。その意味でも、本作は映像制作教育や映像プロモーション教育の観点から非常に示唆に富んだ作品だった。
SNSや批評を見ると、「美談ばかりが語られている」「醜聞には触れていない」といった声も少なくない。確かに、妹のジャネットや弟のランディは登場せず、家族関係の複雑さを感じさせる描写もほとんどない。
描かれているのは、極めてシンプルな物語だ。
父親の強い支配と呪縛のなかで育った少年が、やがてそこから抜け出し、自らのアイデンティティを獲得しながらスーパースターへと成長していく。その過程を描くことに、本作は徹底している。
もちろん、「繊細で傷つきやすい一面だけでなく、怒りや苦しみ、さらにはもっとダーティな部分まで描いてほしかった」という意見も理解できる。だが私は、この作品の潔さをむしろ評価したい。
なぜなら、映画が最初から「何を描く作品なのか」をはっきり決めているからである。
そもそも観客は、マイケル・ジャクソンのどこを観たいのだろうか。
その答えは、私は案外単純だと思う。
観客は、“輝いた”マイケルを観たいのである。
ジャクソン5の天才少年を観たい。『Off the Wall』から『Thriller』へと駆け上がるマイケルを観たい。世界中の人々を熱狂させた圧倒的なパフォーマーを観たい。1980年代から90年代にかけて、世界を席巻したスーパースターを観たいのである。
この映画が観客に届けようとしているのは、まさにその「伝説になったマイケル」なのである。
私は、それでよかったのではないかと思う。
スーパースターという存在は、必ずしも私たちと同じ目線に降りてくる必要はない。
もちろん人間である以上、家族との対立もあれば、怒りも弱さもある。しかし観客が求めるものまで、すべてがそこにあるわけではない。ときに観客は、人間としてのマイケルではなく、伝説としてのマイケルを観たいのである。
本作は、その期待に真正面から応えようとした作品なのだと思う。
そして、その役割をジャファー・ジャクソンは見事に果たした。
正直に言えば、序盤はあまり似ているとは思わなかった。顔つきも違うし、雰囲気もどこか柔らかい。しかし物語が進むにつれて、不思議なことに次第にマイケルに見えてくる。
似せようとしているのは顔だけではない。立ち方、身体の重心、目線の動き、ステージで放つ空気感。その積み重ねによって、観客のなかにある「マイケル・ジャクソン像」が少しずつ立ち上がってくる。
この変化の見せ方は非常に巧みだった。
歌声についても同様である。
本人の音声と組み合わせて作り上げたというが、完全に同じではない。むしろ、どこか少し違う。
しかし私は、その「少し違う」ことに意味があるように感じた。
もし完全に同じなら、それは単なるコピーになってしまう。本作が目指しているのはコピーではない。マイケルを再現しながら、新たな映画作品として成立させることにある。
表情もどこか柔らかく、穏やかに見える。おそらくそれも偶然ではないだろう。
この映画は、史実をそのまま再現することを目指した作品ではない。かといって、完全なフィクションでもない。
現実のマイケル・ジャクソンを素材としながら、映画という表現のなかで新たなマイケル像を構築していく。その作業そのものが作品の本質だったように思う。
前半は映像論やプロモーション論の視点から本作を考えてみた。しかし映画を観終わったあと、最終的に私のなかに残ったのは理論ではなかった。
そこにいたのは、歴史上のマイケル・ジャクソンそのものではない。緻密な計算と演出によって生み出された、もう一人のマイケル・ジャクソンだった。
だが観ているうちに、私たちはその違いを忘れてしまう。
本作が作り上げたのは、コピーではない。スクリーンの上によみがえった「伝説のマイケル」だったのである。
映画『Michael/マイケル』公式HPより


