【今日のタブチ】書籍『ルポ路上メシ』回収騒動で見えたもの――私たちは“他人の命”に序列をつけていないか

出版社の双葉社が『ルポ 路上メシ』の回収を発表した。報道によれば、著者が生活困窮者や路上生活者への取材に際し、本人の同意を十分に得ずに掲載したことや、差別的な表現があったことなどが問題視されたという。

今回の件で私の胸に深く刺さったのは、元路上生活者の男性の言葉だった。

「路上生活者なら同意なしで取材してもいいと思っていたなら、『命の差別』だ」

まさにその通りだと思った。私は、この問題をジャーナリズムの風上にも置けない行為だと思う。
だが、さらに言えばジャーナリスト以前の問題でもある。人としてやってはいけないことだ。

私はこれまで、世界の秘境に暮らす少数民族、高齢初犯者、ストーカー加害者、発達障害を抱える少年など、いわゆるマイノリティと呼ばれる人々を取材してきた。
そのたびに心に誓ってきたことがある。
それは、「取材をさせてもらっていることを忘れない」ということだった。
人は不思議なもので、自分が少しでも優位な立場にいると思うと、いつの間にか「取材をしてやっている」という気持ちになってしまう。だから私は常に自分を戒めてきた。
なぜ取材をしたいのか。取材した内容はどのような形で発表されるのか。その結果として何が起きる可能性があるのか。
そして取材を受けてくれた人にどのような意義やメリットがあるのか。
そうしたことを丁寧に、根気強く説明するよう努めてきた。
もちろん、それでも取材を拒否されることはある。だが、そのときは潔くあきらめた。無理に取材しても双方にとって良い結果にはならないからだ。

今回の件で、私は著者の心の中に「路上生活者の命は自分より軽い」という明確な意識があったとは思わない。むしろ問題はそこではない。
本人も気づかないほど深いところに、「この人たちなら多少乱暴に扱っても許される」という感覚がなかったかということなのである。そして怖いのは、その感覚が決して著者だけのものではないことだ。私たちの日常にも、その種の意識は潜んでいる
生活保護を受けているのだから贅沢をせず、つつましく暮らせ。障害者は周囲に迷惑をかけないよう、ひっそりと生きろ。高齢者は老害なのだから家にいろ。外国人なのだから文句を言わず日本のやり方に従え。前科者の言うことなど信用できない。発達障害があるのなら社会に合わせられない本人に問題がある。ホームレスなのだからプライバシーや人権を主張する資格はない。
こうした言葉は、どこかで耳にしたことがある。
だが、その根底にあるのは同じ発想ではないだろうか。「自分たちより下の立場の人間だから、多少権利が制限されても仕方がない」という発想である。

元路上生活者の男性が口にした「命の差別」という言葉は重い。問われているのは、ある一冊のノンフィクション本の是非ではない。私たち自身が、無意識のうちに他人の命の重さに序列をつけていないかということだ。
人権とは、力を持つ人のために存在するものではない。社会的に弱い立場に置かれた人、少数派の人、声を上げにくい人のためにこそ守られなければならない。
私はこれからも、取材対象を「ネタ」や「素材」としてではなく、一人の人間として向き合いたい。
取材しているのではない。取材をさせてもらっているのである。

今回の『ルポ 路上メシ』問題は、この企画や原稿をしっかりとチェックできなかった編集者の落ち度などという出版界の失敗である前に、人間としての謙虚さを失ったときに何が起きるのかを示した事件だった。

「Amazon」HPより

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