【今日のタブチ】モディー・高市両首相の“美しい妹”騒動――私が通訳だけを責める気になれない理由

インドのモディ首相との首脳会談後、高市首相が共同記者会見で「モディ首相から“美しい妹”と呼ばれた」と紹介したことが話題になった。ところが、その後、実際にはモディ首相は「私の妹」と発言しており、「美しい」という表現は通訳によるものだったことが明らかになった。政府も誤訳だったとの認識を示している。
そして、ネット上では通訳への批判が相次いでいる。確かに、それは当然の反応でもある。
首脳同士の共同記者会見は、軽い雑談の場ではない。国家と国家が向き合う極めて重要な外交の場だ。そこで原文にない言葉を付け足すことは許されるのか、と問われれば、私は「望ましくなかった」と言わざるを得ない。

通訳とは、時に国の運命を左右する仕事である。
山崎豊子『二つの祖国』には、極東国際軍事裁判で通訳を務める天羽賢治が登場する。彼は証言や発言を一言一句取り違えないよう神経をすり減らし、何度も確認を繰り返す。その重圧は常人には想像できないほどで、彼は精神的にも追い詰められていく。
もちろん、こちらは小説である。しかし、山崎氏が実際に極東国際軍事裁判の通訳を務めた人に取材するなど、忠実な描写に努めていることは周知の事実である。
だから私は今回の件について、「原文にない“美しい”を加えた」こと自体は厳しく見ている。外交の場であればなおさらである。しかし、だからといって通訳だけを悪者にして終わる話なのだろうか。
そこに私は、違和感を覚える。

なぜなら、通訳という仕事は本来、単なる音声変換機ではないからだ。
故・湯川れい子氏は映画や音楽の翻訳で数多くの名訳を残した人物として知られている。彼女の訳を読むと、直訳そのものは案外少ない。むしろ日本人に自然に伝わる言葉へと置き換えながら、原文の感情や空気感を見事に伝えている。
そこには「言葉の意味」だけではなく、「言葉の温度」まで届けようとする姿勢があった。もちろん、字幕翻訳と外交通訳はまったく別物である。しかし、人間が通訳する以上、そこには必ず解釈が入る。
相手のニュアンスをどう表現するか。場の雰囲気をどう伝えるか。友好的な空気をどう日本語に置き換えるか。
そうした判断は、常に通訳の頭の中で行われている。
今回の通訳も、おそらく場を和ませようとか、高市首相とモディ首相の親密な関係性を伝えようとか、そのような意図があったのだろう。

私はその判断が正しかったとは思わない。
だが、それをもって「けしからん」「資質がない」と一刀両断するほど単純な話にも見えないのである。

むしろ私が気になったのは、その後の高市首相の受け止め方だ。

もし仮に、本当にモディ首相が「美しい妹」と言ったとしても、それは外交辞令である。
外交の世界では、相手国の指導者を持ち上げる表現など日常茶飯事だ。それは、トランプ大統領の振る舞いからも一目瞭然である。
そこに額面どおりの意味を見いだして喜ぶ必要はない
逆に、「本当にそう言ったのだろうか」と一度立ち止まって考える姿勢があるべきだ。本当に「美しい妹」と表現したのであれば、その言葉の裏にどんな思惑があるのかを読むべきだ。そうあってこそ、一国の運命を担っているトップと言えるのではないだろうか。
しかし、高市氏にはそれができなかったように見える。
今回の共同記者会見での反応を見ていると、通訳の言葉をほぼ額面どおり受け取り、そのまま公の場で語ってしまったように感じる。私はそこにこそ、一国のトップとしての認識の甘さを感じる。

ここで再び『二つの祖国』を思い出す。
天羽賢治は、相手の言葉をそのまま受け取らない。
本当にそういう意味なのか。別のニュアンスはないのか。聞き間違いはないのか。何度も確認する。
もちろん彼は通訳であり、高市首相は政治家である。立場は違う。
しかし国家を代表する立場だからこそ、「本当にそう言ったのか」を想像する精神は必要だったのではないか。

そんなことを考えると、私は今回の騒動を“単なる”誤訳事件として見る気になれない。
そこには通訳の軽率さもあったかもしれない。しかし、同時に、他人の言葉を無批判に受け入れ、そのまま公の場で語ってしまう側の問題も見え隠れしている。
言葉を扱う仕事に就く者であればあるほど、耳に心地よい言葉ほど疑ってみるべきだ。
相手は本当にそう言ったのか。その意味は何なのか。そこに別の解釈はないのか。

今回の“美しい妹”騒動は、単なる誤訳事件ではない。
相手の言葉をそのまま受け取るのか、それとも一度立ち止まって考えるのか。通訳の仕事とは何かを問いかけると同時に、言葉を受け取る側の想像力とは何かを私たちに突き付けた出来事だったように思う。

「msn」HPより

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