【今日のタブチ】図書館の「音ハラ論争」は、不寛容さの表れか――“雑音”だけでなく“多様性”も追い出す社会
「音ハラ」という言葉を目にする機会が増えた。
職場でのキーボードを打つ音、飲食店での会話、電車内の話し声。以前なら「多少は仕方ない」と受け止められていた生活音にまで、不快感を示す声が上がるようになった。
先日、新聞で「おしゃべりOK図書館」を取り上げた記事を読んだ。東京・多摩市立中央図書館では、会話ができるエリアを設ける一方で、静かに読書や学習をしたい人のためのスペースも確保しているという。要するに「静かな空間」と「交流する空間」を分けるゾーニングの考え方である。
私はこの記事を読みながら、音ハラ論争の本質は音そのものではないと感じた。
図書館と聞くと、多くの人は「静かにする場所」というイメージを持つ。しかし、現代の図書館は単なる読書室ではない。子どもが絵本に親しむ場所であり、学生が議論する場所であり、高齢者が地域とのつながりを持つ場所でもある。
公共施設である以上、利用者は一様ではない。
だからこそ、全員に同じ振る舞いを求めるのではなく、多様な利用形態を受け入れる工夫が必要になる。
その答えがゾーニングである。
実は海外の図書館では、この発想は珍しくない。
フィンランドのヘルシンキ中央図書館「Oodi」は、静かな読書空間だけでなく、市民の交流や創作活動の場としても設計されている。オランダやシンガポールの図書館でも、静かに過ごすエリアと会話や共同作業ができるエリアを分ける考え方が広く取り入れられている。世界の流れは「静かにしろ」ではなく、「目的ごとに空間を分ける」なのである。
ところが日本では、ともすると「自分が不快だから排除する」という方向へ議論が流れがちだ。
もちろん、他人への配慮は必要である。深夜の住宅街で大音量の音楽を流す行為や、周囲が困るほどの騒音は論外だ。
しかし、公共空間におけるすべての音を問題視し始めたらどうなるだろうか。
子どもの声がうるさい。学生の会話がうるさい。電話の声がうるさい。パソコンのキーボード音がうるさい。
その先にあるのは、静かな社会ではない。息苦しい社会である。
公共空間とは、本来、多様な人々が共存するための場所だ。そこには高齢者もいれば子どももいる。勉強したい人もいれば、誰かと話をしながら学びたい人もいる。
自分にとって快適な環境だけを求め続ければ、やがて公共空間そのものが成り立たなくなる。
静かに本を読みたい人がいるなら、そのための空間を設ければいい。話し合いながら学びたい人がいるなら、そのための空間を用意すればいい。
必要なのは排除ではなく工夫である。「音ハラ」という言葉が広がるほど、公共空間から雑音だけでなく多様性も失われる。
図書館は沈黙の聖域ではない。さまざまな人々が共存する社会の縮図である。
私には、「音ハラ」という言葉の広がりの背後に、他者への不寛容さが少しずつ忍び込んでいるように見えてならない。
公共空間に必要なのは完璧な静寂ではない。異なる価値観や利用スタイルを受け入れる度量の広さではないだろうか。
「東京新聞デジタル」より



