【今日のタブチ】歴史ドラマに史実はどこまで必要か――大河『豊臣兄弟!』炎上騒動から考えたこと

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』が思わぬ騒動に見舞われている。

問題となったのは、戦国武将の中川清秀の描き方だ。史実では清秀は羽柴秀吉方として戦い、1583年の賤ヶ岳合戦の前哨戦である大岩山砦で討ち死にしたとされている。しかしドラマでは、秀吉方を裏切り、敵方に通じたかのような描写がなされた。これに対し、清秀ゆかりの大分県竹田市と大阪府茨木市がNHKに申し入れを行い、大きな議論へと発展した。
SNSなどを見ると、批判派の意見はおおむねこうだ。
「史実と正反対ではないか」 「実在した人物の名誉を傷つけている」 「歴史を知らない視聴者が誤解する」
一方で擁護派はこう反論する。
「ドラマはあくまでフィクションだ」 「歴史ドキュメンタリーではない」 「創作を否定するならドラマは成立しない」
私はどちらの言い分も理解できる。ただ、この議論を見ていて違和感を覚えるのは、「史実を変えてはいけない」という方向に話が流れすぎていることだ。
そもそも私たちは、「史実」という言葉を少し万能視しすぎてはいないだろうか。
戦国時代を実際に見ていた人間は、もう誰も生きていない。桶狭間の合戦も、本能寺の変も、関ヶ原の戦いも、映像記録はもちろん存在しない。歴史家たちは残された書状や記録を分析し、最も合理的と思われる解釈を組み立てている。
もちろん、史料に裏付けられた事実はある。しかし、同時に、「なぜそうなったのか」「その時に何を考えていたのか」「誰が何を感じていたのか」という部分になると、解釈の余地が生まれる。
今回の『豊臣兄弟!』で問題になった中川清秀の描写もそうだ。
清秀が最終的に大岩山砦で討ち死にしたこと自体は史実として知られている。しかし、その直前に何を考えていたのか、誰とどのようなやり取りをしていたのか、どのような葛藤があったのかまでは分からない。
歴史ドラマは、そうした史料の空白を想像力で埋める作業でもある。歴史家は史料から最も妥当と思われる解釈を導き出し、脚本家はそこに想像力を加える。私は、その想像力こそが歴史ドラマの価値の一つだと思っている。
人物同士の会話も分からない。心情も分からない。恋愛も分からない。葛藤も分からない。もし創作を一切認めないのであれば、大河ドラマは年表になってしまう。

私はドキュメンタリー制作に関わってきた人間として、事実を扱う番組では慎重であるべきだと思っている。例えば、史料によってほぼ確定している出来事を、あたかも逆だったかのように伝えるのであれば問題だろう。しかし、ドラマや映画は別だ。
ドラマが担うべき役割は事実の報告ではなく、人間を描くことにある。だから私は、歴史ドラマに求めるものを「史実の完全再現」には置かない。それよりも、その時代を生きた人間の息遣いを感じられるかどうかを重視したい。

もう一つ付け加えるなら、歴史ドラマには歴史への入口という役割もある。
『鎌倉殿の13人』を見て鎌倉時代に興味を持った人もいるだろう。『光る君へ』を見て平安時代や『源氏物語』を読み始めた人もいるだろう。ドラマをきっかけに歴史に関心を持ち、本を手に取って調べ始める。それで十分ではないか。
歴史学の役割とドラマの役割は異なる。歴史学は事実を追究する。ドラマは想像力によって過去に血を通わせる。

今回の騒動を見ていて、私が感じるのは、この種の論争の根底には史実だけでは説明できない感情が存在するということだ。
中川清秀が裏切り者のように描かれたことに反発した人々は、単に史実と違うから怒ったのではないだろう。地元で顕彰され、誇りとして語り継がれてきた人物が傷つけられたと感じたからこそ声を上げたのだと思う。
NHKドラマ『シミュレーション』で、戦略研究所の所長の遺族が「史実と違う」と訴えた例も同様だ。自分の祖父が戦争に加担した人物のように描かれたことが許せなかった可能性は否めない。それも無理はない。人は自分自身や自分の組織、自分の地域、自分の先祖について、自分なりの誇りを持っている。その誇りと異なる姿で描かれたとき、「事実と違う」という言葉の裏には、「侮辱された」「軽んじられた」と感じる感情が隠れていることが少なくない。つまり、この問題の本質は史実だけの問題ではない。プライドの問題でもあるのだ。
しかし、だからといって、創作がそうした感情にすべて配慮しなければならないとは私は思わない。
むしろ創作者に求められるのは、批判を恐れて何も描かなくなることではなく、なぜその解釈を選んだのかを説明できるだけの覚悟ではないだろうか。そして視聴者の側もまた、その作品が自分のプライドを刺激したからといって、直ちに創作そのものを否定する方向へ向かわない冷静さが必要だと思う。

その境界が曖昧になっては困るが、だからといって創作の自由まで奪う必要はない。私が危惧するのは、炎上を恐れるあまり制作側が萎縮し、歴史ドラマから大胆な解釈や魅力的な人物描写が失われることだ。
今回の騒動で問われているのは、中川清秀が本当に裏切ったかどうかだけではない。
私たちが創作にどこまで想像力を認めるのか。
問われているのは、むしろそのことではないだろうか。

Voicyではこの問題から発して、私が手掛けた尾崎豊氏のドラマ『風の少年』の経験談をお話ししています!是非お聞きください。
#061 『尾崎豊ドラマ』で私も悩んだ――大河『豊臣兄弟!』炎上騒動と創作の自由
https://voicy.jp/channel/1027821/8245231

「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」より

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