【今日のタブチ】反戦アニメを笑う社会の不気味さ
反戦アニメへの冷笑。映画『東京上空300メートル』で聞いた言葉。そして加藤就一さんが語った反原発番組への圧力。別々の話に見えるが、そこには共通する「空気」があるように思えた。
東京新聞に、アニメーターの中野彰子さんが制作した反戦アニメをめぐる記事が載っていた。わずか数秒のショートアニメだが、Xで一千万回以上再生される一方、「現代戦の解像度が低い」「防空体制を整えるべきだ」などの批判や冷笑が相次いだという。
安全保障をどう考えるかは別の議論である。防衛力は必要だという意見もあるだろうし、反戦だけでは現実は守れないという指摘もあるだろう。
実際、この記事でもアニメに対して「軍備を強化しなければならないことを教えてくれる内容だ」「もっと防衛力を高めるべきだと感じた」といった反応が紹介されている。 もちろん、そう受け取る自由はある。しかし、私にはどこか的外れな議論にも思えた。
作者が伝えようとしたのは軍事政策ではない。戦争によって子どもたちが犠牲になる現実への恐怖であり、「戦争は嫌だ」という、ごく素朴な感情だったはずだ。
にもかかわらず、そのメッセージそのものではなく、兵器の描き方や防衛論へと議論がすり替わっていく。その光景に私はむしろ時代の変化や空恐ろしさを感じたのである。
先日観た映画『東京上空300メートル』でも、印象に残る言葉があった。取材に携わった記者の一人が、「アメリカに守ってもらっているのに、なぜアメリカを貶めるような取材をするのか」という声があることを紹介していた。
それも一つの意見だろう。しかし、その考え方を突き詰めれば、「守ってもらっているのだから批判するな」ということになる。
民主主義社会において、本来、批判や検証は敵意ではない。むしろ権力や制度を健全に保つために欠かせない営みである。ところが近年は、異論そのものを許さないような空気が少しずつ広がっているように見える。
昨日このブログでも紹介した日テレ元プロデューサーの加藤就一さんの上映会の際の話を思い出した。
就さんは原発問題を扱う番組を制作していたころを振り返り、「反原発の番組を作っていると、社内でも何となく疎まれる空気があった」と語っていた。また、電車に乗るときには、いつもスマホをポケットの中で握りしめていたという。何かのでっち上げに巻き込まれるのではないか。そんな不安を常に抱えていたそうだ。
もちろん、実際に言論統制が行われていたわけではない。逮捕されたわけでもない。だが、人は必ずしも法律によってだけ沈黙させられるのではない。
発言した途端に嘲笑される。人格攻撃を受ける。仕事への影響まで心配しなければならない。そうした空気もまた、人を黙らせる力を持つ。
国家による監視社会というより、私たちは互いに監視し合う「相互監視社会」の中に生きているのかもしれない。
反戦アニメの内容に賛成するか反対するかは人それぞれである。原発をどう考えるかも自由だ。アメリカとの関係をどう評価するかも意見が分かれるだろう。
しかし、「戦争は嫌だ」と言うことも、「原発に疑問がある」と言うことも、「アメリカを批判的に検証する」と言うことも、まずは自由に発言できる社会でなければならない。
私が今回の反戦アニメ騒動に感じた不気味さは、作品の出来や是非そのものではない。異なる意見を議論するのではなく、発言そのものを萎縮させる方向へ社会が傾いているように見えることなのである。
戦争の恐ろしさは爆弾だけではない。『戦争は嫌だ』と言うことすらためらわれる空気もまた、社会を少しずつ変えていく。
「オタクによる反戦デモ公式」Xより


