【今日のタブチ】東京地検特捜部検事の“悪行”はなぜ生まれたのか――テレビ業界と驚くほど似ていた「成果主義という病」
このブログでも取り上げている、東京地検特捜部の検事の悪行ぶりが、週刊誌などの報道によって暴かれつつある。私はこの事件を見ていて、あることに気がついた。
それは、「どこかで聞いたことがある話だな」という既視感だった。
テレビ業界と似ているのだ。
成果主義、実力社会。効率を求められ、そのなかで効率よく成果を出した者が評価され、のさばる。
そこには文化はない。
以前のフジテレビ問題の折の、某編成マンもそうだった。視聴率を出し、実績を上げていれば、ある程度の蛮行は目をつぶる。そんな組織風土があった。
検察も同じだと思った。
そこで、検事をやっていた人物に取材してみた。
彼は検事時代に上司から「とにかく自白を出せ」と言われていたという。自白が取れるということは、事件の筋読みが良いということだ。つまり実力がある。
未済の件数は年末に統計を取ることもあり、未済を減らすということは当然に要求されていた。上司から事件の配点を受けるとき、記録に「何が何でも割らせたい」と赤ペンで書かれた付箋が貼ってあったこともあった。
そして、当然のことながら、自白を多く取れる検事が出世をする。
日本の検事はエリート意識と職人気質の塊と言われるゆえんである。
取材した元検事は、こうした状況について危機感を抱いていた。彼によれば、かつて検察では「取調べはインタビューではない」と教えられていたという。相手の供述を聞くだけではなく、事件の背景や人物像、動機まで徹底的に掘り下げ、本当の意味で事件を理解することが求められた。
しかし、いまは違う。
「検事はインタビューしかできなくなっている」
そう彼は語る。事件を深く掘り下げるよりも、効率よく処理することが優先される。その結果、なぜその事件が起きたのか、被疑者は何を考えていたのかといった核心部分に迫る捜査は減っているという。
元検事は、「このままでは事件の動機や背景が十分に解明されないケースが増えるのではないか」と、成果主義がもたらす将来に強い危惧を示していた。
この話、どこかで聞いた話ではないか。
そう、前述したように、いまのテレビ業界と同じなのだ。成果主義、実力主義。効率を求められ、効率よく実績を上げた者が評価される。
しかし、かつてのテレビ業界はそうではなかった。視聴率が悪くても社会的に意義がある番組は評価された。キャストや新しい事務所を開拓するなどの目に見えない利益を評価されることもあった。
だが、いまはどうか。
視聴率と配信回数という二つの成果を求められ、いかに効率よくコンテンツをマネタイズするかを至上目的としている。そしてそれを達成した人間が社内で出世してゆく。
制作部門のような、作品は作るが「金を使う部署」の評価は低く、作品を作らないのに「金を稼ぐ部署」に対する評価ばかりが先に立つ。
組織全体が、「何を作るか」「何のために仕事をするか」ではなく、「どうやって数字を上げるか」に支配されていくのである。
そんな状況ではどんなことが起こるか。
成果を出す人間であれば、多少社会規範から逸脱していても見逃される。
いや、正確には見逃されるのではない。成果を出している限り、誰も見ようとしなくなる。見てみないふりをするのである。
手段より結果が重視される。
そして、その人物を止めることのできる人間がいなくなる。
私は今回の検事の問題を、単なる一人の検事の資質の問題だとは思っていない。
むしろ問題なのは、その人物が長年にわたって評価され、出世し、重要な地位を与えられてきたことである。つまり、問題は個人ではなく、その個人を生み出した組織の論理にある。
こうした組織風土があるからこそ、今回の検事のような人物が生まれる。
そして、そういった組織の論理を良しとし、結果さえ出ていれば問題視してこなかった上司や上層部もまた、その責任を免れない。いわば共犯者なのだ。
フジテレビ問題で取り沙汰されたような社員もまたしかりである。
数字だけを追いかけた組織は、やがて文化を失う。文化を失った組織は、成果だけを信仰する。
その先に待っているのは、社会規範よりも成果を優先する人間の誕生である。
今回の事件は、一人の検事の不祥事として片づけられる話ではない。
日本の組織全体が抱える病理そのものを、この事件はあまりにも鮮明に映し出しているように、私には見えるのである。
「ABEMA TIMES」より


