【今日のタブチ】被取材者は何を期待するのか――ドキュメンタリー『迷路の出口を探して』で私が向き合った難題
今日は、私がこの秋に担当する市民大学の講座について少し紹介したい。テーマは、「ドキュメンタリーが“世界の見え方”を変える――常識を壊す思考の冒険(後編)」である。現在、追加募集も行われているようなので、興味のある方にはぜひ参加をご検討いただきたい。桜美林大学コースとして10月に開講予定である。 https://sagamachi.jp/course-shimin/17870
だが、このブログではただ単に講座の宣伝をして終わるのでは面白くない。そこで、私がドキュメンタリー制作の現場で常に考え続けてきた「被取材者の権利」というテーマについて書いてみたい。
一般の方にも比較的知られているのは、名誉権やプライバシー権、そして肖像権だろう。メディアで取材する人間は、当然ながらこうした権利と向き合わなければならない。
相手の社会的評価を不当に傷つけてはいけない。私生活をみだりに暴いてもいけない。本人の姿や顔をどのように使うのかにも十分な配慮が求められる。
ところが、実際のドキュメンタリー制作の現場では、もうひとつ厄介な問題が存在する。
それが「期待権」という考え方だ。
期待権という言葉は、かつてのNHK番組改編訴訟などでも注目された。取材協力者が「こういう趣旨の番組になる」と説明を受けて協力したにもかかわらず、実際には異なる形で放送されたことをめぐり争われた概念である。研究論文や判例評釈も数多く存在する。
もっとも、私はこの問題を法律論として考えるより、制作者として考えることが多い。
ドキュメンタリーの場合には、市井の一般人を被取材者にすることが多い。当然、そうした取材でギャランティが発生することはほとんどない。それなのに、なぜ人は取材に応じるのか。もちろん、人によって理由はさまざまだ。しかし、多くの場合、「自分のことを理解してほしい」「自分の経験を社会に伝えたい」「自分の思いを知ってほしい」という期待を持っている。それは極めて自然なことだ。
だが、番組を作る側は被取材者のためだけに作品を作っているわけではない。視聴者に向けて事実を伝える責任がある。社会的な意味を考える責任がある。そして何より、取材によって見えてきた事実をもとに編集しなければならない。結果として、「被取材者が望む作品」と「制作者が作るべき作品」が一致しないことがある。ここにドキュメンタリーの難しさがある。
私自身、この問題について深く考えさせられた経験がある。2014年に制作したNNNドキュメント『迷路の出口を探してⅠ ストーカーの心の奥底を覗く』である。
この番組では、これまであまり光が当てられてこなかった加害者側に長期間密着した。当然ながら、取材対象者にはさまざまな思いがある。自分の苦しみを理解してほしい。更生への努力を評価してほしい。世間に誤解されたくない。そうした期待を抱くのは当然だ。しかし、一方で、制作者はストーカー問題を社会にどう伝えるべきかを考えなければならない。番組は被取材者の広報映像でもなければ、代弁装置でもない。取材を通じて見えてきた複雑な現実を、視聴者に提示するためのものである。だからこそ、ときに被取材者の期待と制作者の判断がずれる。
私はこのことこそ、名誉権やプライバシー権、肖像権だけでは説明できない、ドキュメンタリー特有の難しさだと思っている。
*では実際に、被取材者の「期待」と制作者の「責任」が真正面から衝突したとき、私はどう判断したのか。この取材で私が直面した具体的な難題については、市民大学とこのあとのVoicyで詳しく語りたい。
#059 役に立たない権利論?いや違う。ドキュメンタリー制作者が向き合う「期待権」という難題
https://voicy.jp/channel/1027821/8250291
そして近年、この問題はますます重要になっているように感じる。SNSの時代になり、誰もが発信者になった。誰もが自分の物語を持ち、自分の見られ方に敏感になった。だからこそ取材する側には、これまで以上に高い倫理観が求められている。
市民大学の講座では、こうしたテーマについて、実際のドキュメンタリー作品も題材としながら考えてみたい。
なぜ人は取材を受けるのか。なぜ制作者は迷うのか。そしてドキュメンタリーは社会に何をもたらすのか。そんなことを一緒に考える時間になればと思っている。
現在、追加募集も行われているとのことだ。まだ申込みは間に合うようなので、興味のある方はぜひ参加していただきたい。教室でお会いできることを楽しみにしている。https://sagamachi.jp/course-shimin/17870
「NNNドキュメント」公式HPより


