【今日のタブチ】昨日は検察に失望し、今日は司法に希望を見た――検察審査会が示した「立花氏の不起訴は不当」の“本当の”意義
昨日のブログでは、東京地検特捜部の検事による不祥事について書いた。司法を担う側にいる人間が、自ら法律を踏みにじるような行為を行った疑惑が向けられ、その後の組織対応にも厳しい目が向けられているという話だった。
検察は市民を捜査し、ときには逮捕し、起訴するという強大な権限を持つ。その権限は社会にとって必要だからこそ与えられているのだが、その分だけ高い倫理観も求められる。だからこそ、こうした不祥事に接すると、「司法を担う側がこれでいいのか」という失望を覚えてしまう。
そんな記事を書いた翌日に飛び込んできたのが、立花孝志氏に関する不起訴処分について、神戸第2検察審査会が「不起訴不当」と議決したというニュースだった。
同じ司法に関わる話なのだが、こちらは昨日とはまったく違う印象を私に与えた。というのも、今回のニュースからは、日本の司法制度が持つ「自己修正機能」がきちんと働いている姿が見えたからである。
立花氏は兵庫県知事選をめぐる問題の中で、元兵庫県議会議員の奥谷謙一氏に対する発言などについて名誉毀損容疑で書類送検されたが、神戸地検は不起訴としていた。しかし、その判断に対して検察審査会が「本当に不起訴でよかったのか」と疑問を投げかけた。
このニュースを見ていて改めて考えたのは、検察という組織が持つ権限の大きさである。
私が今回注目したのは、検察の判断が正しかったか間違っていたかではない。強い権限を持つ組織の判断に対して、市民が「本当にそれでいいのか」と問い直す仕組みが機能したことである。権限が大きくなればなるほど、それを監視する仕組みもまた重要になる。今回の議決は、その当たり前の原則がきちんと生きていることを示したように思える。
だから私は、この議決を快挙だと感じた。立花氏が有罪になるかもしれないからではない。立花氏という人物への賛否とも関係がない。検察が一度下した判断に対して、市民が再検討を求め、その声が制度として受け止められた。その事実に意味があるのである。
健全な司法制度とは、決して間違えない制度ではない。人間が運営する以上、検察も裁判所も判断を誤る可能性はある。本当に重要なのは、誤りの可能性が指摘されたときに立ち止まり、もう一度確かめる仕組みが用意されていることではないだろうか。
今回の「不起訴不当」も、まさにそのための制度である。
この議決によって、神戸地検は改めて事件を検討し直さなければならなくなった。これまでの捜査内容や証拠を再度精査し、起訴するのか、それとも再び不起訴とするのかを判断することになる。
そして、この制度の興味深いところはここで終わりではないという点だ。
仮に神戸地検が再び不起訴とした場合でも、案件は再度検察審査会の審査対象となる。そして二度目の審査で「起訴相当」と議決されれば、検察の意思とは関係なく強制起訴の手続きへ進むことになる。
つまり、日本の司法制度は「検察が不起訴と判断したらそれで終わり」という仕組みにはなっていないのである。
私はここに大きな意味があると思う。
昨日のブログで取り上げた検事の不祥事からは、強い権限を持つ組織の危うさが見えた。人間が運営する以上、どれほど優秀な組織であっても間違いや不祥事を完全になくすことはできない。
しかし、今日のニュースからは、その強い権限に対して市民が異議を申し立て、必要であれば判断の見直しを求める仕組みもまた機能していることが見えてきた。
検察という強大な権限を持つ組織の判断に対し、市民が「本当にそれでいいのか」と問いかけ、その声が制度として受け止められた。その結果、検察は改めて事件と向き合わなければならなくなったのだ。
昨日は司法への失望を書いた。しかし、今日は、司法制度が持つ自浄作用を見た。
検察に関する2つの出来事を通して、私は司法の柔軟性と可変性を感じることができた。
だから私は、今回の「不起訴不当」という議決を快挙だと感じている。
「TBS NEWS DIG」より



